「でも私は学校も出ていないから、お仕事の手伝いは無理。政治や経済にもそれほど聡くはないの。だからアメリカって国の事情も、本当はよくわからない」
学校を…… 出ていない?
「身の回りの世話とかってカンジなんだけどね。彼、独り身だからそういう人が必要なのよ。家政婦も雇ってるけど、やっぱり生活スタイルが合わないと、どうしてもトラブルが多くてね」
「生活スタイル?」
「えぇ。彼、アメリカでの生活が長いとは言っても、やっぱり中東の人間だからね。合わないところも多いわ」
父親がアラブ人であることも、至極簡単に教えてはもらった。だがやはり、アメリカ人だと思っていた。
“アラブ人”というのは、アラブ系の人間であるという意味なのだと、思っていた。
「中東の…… 人なんですか?」
「えぇ そうよ」
メリエムは、瞳の黒い部分に光を揺らせてやや驚く。
「そんなコトも知らなかったの?」
「はぁ」
知らないと言うか、美鶴が勝手に解釈していただけなのだが……
「まったく………」
その場にいない相手へ向かって、呆れたように嘆息する。
「ひょっとしてミシュアルのコト、アメリカ人だと思ってた?」
「はぁ」
「やれやれ」
「じゃあ、あなたも中東の人なんですか?」
美鶴の言葉に、メリエムはちょっと首を傾げる。
「うーん。ミシュアルの養女だから国籍はそうだけど、厳密に言えば違うわね」
「養女?」
「えぇ そうよ。私、ミシュアルに拾われたの」
「拾われた?」
「孤児院でね」
…………
「私、戦争孤児なのよ」
閑散とした店内に、砂漠の景色が浮かび上がる。
砂煙の中を走行する戦車。打ち上げられるミサイル。飛び交う戦闘機。声を荒げるデモ隊。
マスメディアから流される映像を、美鶴も知らないワケではない。ただ、遠い異国の、自分とは縁のない世界での出来事としか、捉えることはできない。
美鶴の思い描いた情景を読んだのか、メリエムは少し言葉を選びながら話を再開する。
「たぶん、あなたが思っているような戦争とは………… 違うと思うわ」
「え?」
「私は、中東で頻発するトラブルとは、あまり関係ないのよ」
?
戦争孤児なのに?
「私、アフリカ出身なの。Hagere Ertraという国を、ご存知かしら?」
「え? えぇ?」
国名の発音が聞き取れずに、眉を寄せる。メリエムはハッと目を見開いた。
「あっ ごめんなさい。日本では、エリトリア…… と言うのだったわね。ご存知?」
エリトリア…… ?
「いいえ」
「でしょうね。出来たばかりの国だし、日本とはあまり縁のない存在だから」
そこで一口、コーヒーを啜る。
「エチオピアから独立した国なの。結構なトラブルを起こしてね。エチオピアは、ご存知?」
「はい、エチオピアなら。でも、トラブルって?」
「えぇ 独立戦争…… とでも言うのかしらね。私はその戦争の孤児」
事も無げにサラリと言う。
「現在のエリトリアとエチオピアの国境付近の村で育ったわ。戦禍の中で村は崩壊し、両親を無くして孤児になった。孤児院に引き取られて、そこでミシュアルに拾われたの」
ただポカンと、聞き入るしかない。
メリエムは明るく続ける。
「私はラッキーだわ。トラブルの中で見つけてもらうこともできずに、息絶えてしまう子もいるから」
そんな話を明るく言われても、困るんですけど………
「日本語が話せるからって、ミシュアルの興味を引いてね。すぐに引き取られてラテフィルへ連れて行かれた」
「ラテフィル?」
「ミシュアルの国よ。中東の小国。アラビア半島の紅海沿岸。エリトリアとも、紅海を挟んで隣同士」
窓へ向ける顔。遠くを見つめる。
「美しい国よ」
美しいというのは、どちらの国のことを言っているのだろうか? エリトリアだろうか? ラテフィルだろうか?
話の流れからいくとラテフィルだろうが、その瞳は、遠く故国を懐かしむかの眼差し。
だが、望郷とも思える沈黙はすぐに現実へと舞い戻り、スッと背筋を伸ばした。
そこでもう一口啜ると、改めて美鶴へ視線を向ける。
「まぁ 私にも、私とルクマとの関係にも興味のないあなたには、私の生い立ちなんて所詮はつまらない話ね。そろそろ本題にでも入ろうかしら?」
そうして、満面の笑みをたたえる。
しまったっ!
そう思った。思ってしまった。
早く本題に入れと思いながら、いつの間にかメリエムの身の上話に聞き入っていた自分に、腹が立つ。
そんな美鶴の態度に、メリエムの顔がさらに緩む。イタズラ心が、顔を覗かせる。
「実はね、お散歩なんて、ウ・ソ」
「は… い?」
言っている意味も、その茶目っ気も理解できない。
「偶然なんかじゃないの。私、あなたのマンションを探していたのよ。まぁもっとも、マンションが見つけられなくて迷ってたんだけどね。あんなところであなたと出会したっていうのは、それは本当に偶然なのよ」
探していた?
「私、あなたを調べに来たの」
まだ陽の暮れる時間ではない。これほどに辺りが暗いのは、曇っているからだろう。
降らなかったな
ぼんやりと空を見上げる聡の肩を、一人がポンッと叩く。
「次も頼むぜっ!」
軽い口調でそう叫ぶと、暗闇の中へと消えてゆく。
その背中へ向かって肩を竦めたところへ、背後から別の声。
「今日も大活躍だったな。俺が見込んだだけはあるぜ」
その言葉に、眉を潜めながら振り返る。満足気な顔が笑った。
スッキリと刈りあげた形の良い頭部と、少し垂れた目尻。
「この調子で、来週も頼むぜ」
「いつまでやらせるつもりだ」
喉の奥から搾り出すような低い声と共に、睚眥を向ける相手。だが蔦康煕は、臆することもない。
「前にも言ったはずだ。地区予選は勝ちあがる…… と」
「そんな約束はできない」
「してもらう」
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